2009年6月18日木曜日

幸いな道

一昨日の交わりで話したことの1つ。人が本当に主に集中するためには、相当の努力、或いは制限が必要、ということ。人の頭や心の中には、あまりにもたくさんの外へ向かうエネルギーがあり、外からの声があり、反対方向に全力で引っ張る敵の存在があるわけで、じっくり主に向かい、集中するということは、そう簡単なことではない。でも、それによってしか本当に主と交わり主を深く知ることはできないと思う。

主ご自身にじっくり接し、深く知ることがないというのは、主の悲しみであり、私たちの不幸である。そこがすべての幸福の源であるから。主は私たちを幸せにしたいので、様々なアプローチをご自身の側からいつもしてくださっていると思う。そして、本当に主を知りたいと真に願う者たちを、そうできる(それしかできない)ところへ追い込んでくださる。そこで主を味わい始め魅了され始めると、その後はそこへ戻るのが容易になる。世のどんな楽しみにも増して素晴らしいものがそこにあるのがわかるから。

主は私たちの人生の応援団ではない。私たちの生であり唯一の目的。私たちは世にあってもすでに霊的な世界に入れられた者たち。その特権によって今主を知る幸いを得ることを、主は切に願っておられると思う。
そして、生きておられる主を実際に知る者たちの証が、その平安と喜びが、彼らに触れる人の心をダイレクトに主に向かわせることになるはず。

主に向かうことは、入り口へ向かうようなもの。本番はそこから先。苦労はあるけれど、これは甘い幸いな道です。*^^*

5 件のコメント:

  1. 鷲のように翼を張って2009年6月19日 17:57

    おっしゃることがよく分かります。
    こんな賛美がありました。 

     私たちは知ろう
     主を知ることをせつに追い求め
     主は暁の光のように
     たしかにあらわれ
     大雨のように 私たちのところに来て
     後の雨のように地を潤される


    いつも、楽しみに読ませていただいています。

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  2. コメントを感謝です。

    大雨のように来てくださる主。
    主を知ることをせつに追い求めて行きたいですね。

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  4. いつもありがとう。emiさんの言葉が心にしみます。というか、主がemiさんを通して語ってくださっているのですね。私は最近バタバタと忙しすぎて、息切れがしてました。私の注意を主から逸らそうとするあらゆる自己のエネルギーや外からの雑音。それらのものを意識して制限してただ主に向かう… 今の私にも必要なことでした。本当にありがとう。

    今日も祈りつつ

    (上の削除は、私です。自分の名前を間違えてしまったので…汗)

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  5. こちらこそ、いつも気にかけてくださってありがとうございます。

    あのテーゼの賛美、以前いた教会のコワイヤーで良く歌いましたよ。懐かしく聴きました。

    お忙しい中でも、恵みと平安がはちこさんの心を満たしますように。

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