2009年2月20日金曜日

大いなる豊かさへ

        
「ダビデのようなすばらしいリーダーを求めよう」「ダビデのようになろう」ということが私のメッセージのねらいではあり得ません。私は「人間のリーダーなど本当はいらない」「神はダビデ以上に私を大切に導いてくださる」ということを最も強くお伝えしたいのです。「信仰の勇者」だの、「祈りの戦士」だのという表現はキリスト教書店には溢れていますが、聖書にはありませんし、私も使う気はありません。確かにダビデは信仰もありましたし、深い祈りの生活をしていました。勇者でもあり、戦士でもありましたが、それをごちゃ混ぜにして英雄視することは、断じて間違っています。ダビデだけでなく、誰に対してもそのような目で見ることは間違っているのです。ダビデは美人が好きで、功名心の強い私たちと同じどこにでもいる普通の男です。逆にだからこそ全ての人に望みがあり、いかなる人生も主の前に尊いものとなり得るのです。

(Saltさんのメッセージ「油注がれるダビデ(ダビデの生涯と詩編 ① )」より)

葡萄の房は実がそろっているもの。そう見えないのは、私たちの目が覆われていたり歪んでいたりするから。
過去に生きたどんなに素晴らしく見える聖徒であっても、私たちはその人たちに倣うべきではないのだと思う。もちろん部分的に…主がその人の性質となっている部分のみであれば、それは私たちが主を求めるきっかけを与える飢え渇きとなるかもしれない。だけど、私たちが倣うべきなのは、ただ主のみ。
主は一人一人を目的をもってユニークに造られた。そしてそのユニークな形に主のご性質が現れることを企てられた。だから、素晴らしいと思われる人を真似することは意味がない。直接主によって育まれて行かないといけない。「私」も「あなた」も全く違うのだから。
人の目立つ特質も結局は主からの頂き物であり、それも主の目的を果たすため、御体の他の部分に仕えるために主が与えられたもの。私たちには誇るものは何もない。
葡萄の房は均一。主はそう見ておられる。ただ主(約束の地)の中に住み、御言葉を蒔き、そこにある良きものを味わい、またシェアして行きたいと願う。

神の国の方法は明確で単純。 極上の種を良き地にまけば、必ず極上の収穫を得ることになる。父は子に良きものを得てほしい。原則は子供たちでも理解できるもの。 そんなに難しいはずはない。
神は御言葉をもって事を行われる。約束(御言葉)を得、心に蒔き、期待し、夢見る。 蒔かれた御言葉が虚しく主に戻ることはない。今まで長い間持ち運んで来た曖昧な知識にさようなら^^

May Your will be done on earth.


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