2009年2月24日火曜日

God is good

薬はコップ1杯以上の白湯で飲むのがベスト。ということで、朝食前に漢方薬を白湯で飲みつつゆっくりタイム中。昨夜は浅い呼吸しかできず、呼吸をするたびに咳が出て一瞬青くなりましたが、朝起きてみたら息を深く吸えるようになっていました。咳もほとんど出ない。たぶんアレルギーなのでしょう。病気が進んでしまったのかも、と思い、病院の予約の変更を考え始めたりしましたが、やはり大丈夫。深い呼吸ができるって幸せなことですね(^^)

*   *
ここ10日ほどの間に起こったことを書き留めておこうと思います。
問題が頭の中でぐるぐる回り煮詰まって行く苦しさの中で(更年期のクレイジーネスが加担しています)、「主よ、高い所に連れて行ってください。」と祈ったのが始まりでした。いつまでもそんなことで時間を無駄にしているのは苦しいことでした。それと、信仰の先輩たちが持っているもので私に欠けているものがあることを認識していましたが、それが何か良く分からず、でも心の底から欲しくて求めていました。

その後、先週の日曜日の夜だったでしょうか。羊飼いである主が私を運んでくださっている、というクリアなイメージが与えられました。私は主の腕の中にいる。あるいは、主は私を肩に担いでくださっている。私がどう感じていようと、私は主の愛の中にあり、主は完全に私を受け入れてくださっている。敵は近付いてくるけれど、私は主にしっかり守られ、運ばれている。不安になろうが、恐れようが、安全。
イメージ自体はこれまで何度も聞いたり見たりしてきたものですが、今回はそれが本当にリアルにわかりました。「高いところ」は主の腕の中で、とてもあたたかい場所でした。続いていた苦しさが去りました。あんなに安息を感じたのは初めてのことでした。
それからは、不安を感じたり、いやな気分になるたびにただそこに戻るだけ。本当はいつもそこにいるのですが、それを認識していないだけのこと。
その後に何故か聞きたくなったのが2005年にFaith Campで買ってきたJudithの元気なメッセージ。これも、イギリスから帰ってすぐに聞いたときにはわからなかったことが、今、ジャストタイミングで心に染み込んできました。主のすべての約束は主にあってアーメンとなった。種(御言葉)を蒔きさえすれば、必ず収穫を得ることになる。主と御言葉は一つ。主は御言葉なしに働かれることはない… 御言葉の重要さを再認識することとなり、その甘さに浸りはじめました。
土台が据え直されました。心は軽くなり、深い平安があり、何の見える理由もないのに喜びが湧き出てきます。「言葉」がやっと実体となり始めました。自分が頼っているものは決して変わらないもの、唯一の確かなもの。

今まで聞いてきた真理やメッセージを、全く違う心境で思いだしています。ああ、そういうことだったのか、と。主を楽しむということの意味もやっとわかってきたかな。
たとえ主の中にいるということは同じであっても、そこで一生恐れ続けることもできるわけです。知識が与えられ、そして霊の目が御霊によって開かれなくてはいけない。他の人のことはわかりませんが、私はかなり大変な経験によってそこまで追い込まれることが必要でした。時間がかかりましたが、主は遅すぎるということはない。

winning sideにいます。これからが楽しみです。私たちが今経験していること以上のことを主は用意しておられるはず。「主の愛の深さ広さを知ることができるように。」とか、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを知ることができるように。」という祈りは、私たちがそれらを世にいる間に知ることができるということのはず。そう、こんなものではありませんよ♪

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