日曜日の朝、迎えに来てくれたS姉妹の車に乗り込み、互いの近況を話しはじめた。私はあまり喋らないほうがいいので、今日は話してね、などど言いつつ。朝霧あたりだったかな、彼女が主に向くことの困難さを語り始めた。主がうちにおられることは信じるけれど、主を意識して生活できてない、と。
そこで私は最近の経験を話した。チラッとだったけど主を見たよ。永遠の方向から、微笑みかけてくださってた。光輝いていた。主はあまりにも素晴らしくて、悩みも恐れも不安も、自分自身も、とにかく主以外のことがすべて薄らいでいった、と。先にあるのはただ主であることが良くわかった。その素晴らしさを一瞬味わった。「先」がどんなにイイものかがわかった。
「心が躍っています。」という彼女の反応にびっくり。主が彼女にとって、もっとリアルになったようだ。証を聞くことが、それからの主との近い歩みのための一つのきっかけになったらすごく嬉しい。そして、語る度、私自身も励まされている。
私たちは、目の覆いを取り除けられて主を見ることで変化する。頭での知識は実際と置き換えられ、価値観や心の置きどころが大きく変わる。主のいのちを生きることについての理解が深まる。地上でのほとんどの歩みにおいて、見ることは信仰による。主は敢えてご自身を隠され、私たちが意志をもって探し求めるようにしておられる。頭の知識を積むだけでは主に届かない。御言葉を通し、御霊の啓示を通して私たちは主を、また他のことを知る。そして、時に訪れる主とのリアルな出会い。
パウロはダマスコへの道で多くを見たのだろう。主ご自身を。見ることがどういうことかわかっていたから、人々が見ることができるように、と切に祈った。殉教者の顔の輝きは、主の輝きの反映。世にあって最も雄弁に主を証するものかもしれない。
その時、私は病気の新たな症状などでちょっと不安になっていた。「先」についての漠然とした不安。そんな私への主の憐れみ。その存在から溢れる愛を見て、恐れや不安は消えてしまった。
主は素晴らしい!とても言葉では表しきれないけれど。
将来はただ楽しみにし、主から与えられたこの日を主と共に生きる。弱さにあって主を知り、そして証できる時間が許されていることを感謝します。
ブログを読み、主のいのちが豊かな流れとなって零れてき、喜びに満たされます。
返信削除>頭での知識は実際と置き換えられ
た瞬間は、ただただ喜びと涙しかありませんね。
>主のいのちを生きることについての理解が深まる。
ただ霊によって霊のことを知る歩み、開かれてゆく歩み
>パウロはダマスコへの道で多くを見たのだろう。主ご自身を。見ることがどういうことかわかっていたから、人々が見ることができるように、と切に祈った
アーメンです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです
ハレルヤ!交わりを感謝します
同じ方に触れている、同じ方に魅せられていることを本当に嬉しく思います。
返信削除弱さを誇ります。
追いかけてくる恵みを味わいつつ、主に向かってさらに前進ですね。
主と主の十字架の御業をほめたたえます。
ハレルヤ!