2009年5月10日日曜日

弱さの段階…そして恵み 

私がここ何週間かで経験したことを思うとき、「折り返し地点」という言葉に体のこととは別の意味もあると気づいています。主に在って経験していることを、自分のためにも少し整理しておきたいと思います。

主が許される苦しさには色々な程度があり、ただその中にいなければいけないという弱さの中でそこを通過しました。ここに書いていた「死に抵抗すること」…その意思を持ちつつ薬を飲み始め、その副作用で苦しみ始め、それでも飲んでいた時は薬の作用で眠れていたのが、やめた途端に苦しさはそのままで、加えて夜はほとんど眠れない状態となりました。
苦しさのピークだったあの土曜日、病院の救急外来で点滴を受けながら、「抵抗」という言葉は頭から消えて行きました。祈りはただ「主よ~、助けてください。」になり、その後、主の御手の中にあるという安心感の中で、「主よ、もういいです。人生、十分苦しみました。もうあなたのところの方がいい。」と、駄々をこねはじめました。ただ早く楽になりたかった。自分の中のガードを解いた状態だったと思います。主が言葉をかけてくださったのは、その後でした。

弱さがそこまで行ったとき、意志さえちゃんと働かせることができなくなったとき、主が現れてくださった。子供のように、ただそのままの心を注ぎ出した時。その時は、主の言葉をただ聞いた、という感じでした。「ああ、私はまだまだ生きるんだ。」と思いました。

先日あらためて、「お言葉どおりこの身になりますように。」と主に意思表示をしました。主の言葉であれば、それは見える状況とは関係なく、そしてやがてそれを圧倒して働いてくださるでしょう。私は一日一日を主の平安に在って生き、与えられた分を果たしながら、それを見て行くこととしましょう。

あれは貴重な十字架の経験だったのだと思います。あの「点」は私の中でとてもクリアにその前と後を分けています。そこから生還してきているという感覚です。
殉教であっても、ステパノの顔の輝きも、それはその時に経験する徹底的な弱さのあとに現れる主の恵みなのだと思うようになりました。

私には何もできない、事を成してくださるのは主だということ、そのコントラストがこんなにクリアになったことはありません。私はますます衰え、主が栄えられる。主ご自身がそれを導いてくださっています。

十字架において勝利を得てくださった方、その恵みであるご自身を私たちの弱さにおいて与えてくださる主をほめたたえます。

2 件のコメント:

  1. 愛知県のさっちゃん2009年5月10日 23:44

    お証を感謝いたします。

    ただ、ただ、アーメンです。

    弱さの中に置かれるということが、究極の弱さである十字架の死に継ぎ合わされるということ・・この経験の中に導かれていくことは本当に辛い経験でもありますよね。

    「死」ですから、「抵抗」ということすら死に下ってゆきます。

    パウロの言葉の
    「実際、私たちは自分自身への死の宣告を受けたのである。それは私たちが自分自身ではなく、むしろ、死者たちを起こされる神にこそ、信頼をおく者となるためである。」コリント第二1:9

    この言葉の実際の中へ導かれることはまさに恵みだと思っています。

    主なしに、自分自身は干からびた骨同然であることを深く知リ、いのちの主によって生かされる恵みの領域へ、

    「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
    deut 32:11
    わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。
    deut 32:12
    ただ主だけでこれを導き」


    いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
    2cor 4:11
    私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
    2cor 4:12
    こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
    2cor 4:13

    のおことば通り、内にも外にもいのちが現されて行くことでしょう。
    その流れはなんと自然で、その証は人々へと流れ、主ご自身が証されてゆくでしょう。

    主がともにいてくださる祝福は、死を通された者のみが、真に証人として立つことができると信じています。

     >先日あらためて、「お言葉どおりこの身になりますように。」と主に意思表示をしました・・・私には何もできない、事を成してくださるのは主だということ、

     この告白を読み・・百人隊長の信仰の告白を思い出しています。

     
    「 あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

    主の祝福のお言葉・・を感じて喜びに満たされています。感謝します。

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  2. さっちゃん、コメントを感謝です。

    弱さにあって主を分かち合えるというのは大きな恵みですね。

    十字架の経験に導かれて行くというのがどんなことか、わかり始めました。

    主が自分に許される状況…結局はそれが最高の学校であり、主に触れ、真理を知る場所ですね。
    書いてくださった御言葉、今だから良くわかります。
    ありがとう!

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