カナダの友人が私と連絡が取れなくて心配し、友人からシンガポール人のD姉→KFCのG姉→KFCのS姉と連絡がまわり、S姉妹から私に昨日メールが届きました。どうも電話のタイミングが悪かったようです。で、今日のお昼過ぎ、彼女に電話して楽しい交わりの時をすごしました。(S姉妹、ありがとうございました。)
私の様子を話したら、何だかわからないけれど、ここ数週間いつもより祈らされていたとのこと。感謝でした。私のブログは日本語ばかりなのでわからないと言うので、じゃあ、英語のブログも始めようか、と。さっそく用意してみましたが、続くかな。。。
弱さにあって気づくのは、普段から私たちはたくさんの守りの中にあるということ。兄弟姉妹の祈り、主と聖霊によるとりなし、天使たちの奉仕… それがなかったら、たとえば私など今ごろどんなことになっていたでしょう。最悪と思われるとき、主の助けはまだかしらと待っているときにも、もうすでに主は働いてくださっているのだと思います。元気なとき、問題のないときには気づかないけれど、身の安全だけではなくて、私たちの小さな決断も、ちょっとした思いも、知らず知らずのうちに、主のみこころのほうに方向付けられたり、励まされたりしているに違いありません。それに気づいたら感謝することばかり。もしその助けがすべて目に見えたとしたら、私たちはどんな反応をするでしょう。
色んな経験を通りつつ、自分のパートの小ささをますます覚えています。全体が100だとしたら、私のパートは1以下。ただ主に向くというのが私の唯一のお仕事のようです。それを合図に、主の側が一斉に動き始める。知れば知るほど主のパートの大きさに圧倒されます。全部計画してくださり、十字架で成し遂げてくださり、私たちの実際の完成へと向けて備えを与えつつ導いてくださってる。主に向き、その富を受けとり、褒め称える。それだけです。私たちには誇るものなんてない。すべては主の十字架によって得たもの。
そう、すべては主の栄光です。畏れつつひれ伏して、愛である主を礼拝します。
0 件のコメント:
コメントを投稿