2009年5月28日木曜日

memo

風邪は鎮痛剤で押さえつつ大したことなく済みそうです。お祈り感謝です。突然の痛みに、今度は何かしらと思ったけれど、一過性のもので良かった。

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(memo) Dr. Lukeの「聖書のキーワード聖化とは」より

聖書で言う聖化とは、このような「肉」を信仰によって十字架につけて死に渡し(→「罪について」参照)、すでに得ている 内にいますキリストの御性質(新しい性質)に従った新しい思考・情緒・意志・行動のパターンを実現することを意味します。これをメタモルフォーシスと言います。私たちのアイデンティティーは内にいますキリストであり(ガラテヤ2:20)、この方の御性質を私たちの魂、体を通して表現することができる時、神にふさわしい生き方ができるのです。これが神の栄光を現わすことに他なりません。すなわち「あなたがたを召して下さった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさい。それは『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです」とあり(1ぺテロ1:15、16)、また私たちは「すばらしい約束のゆえに、神の御性質にあずかる者となる」(注)のです(2ぺテロ1:4)。

このような聖霊の働きによる聖化の過程はいわば主観的聖化と言えますが、これは私たちの肢体に罪が内住している現在においては、私たちの人生を通しての過程であって、決して一夜にしてなるものでもなく、また焦燥感にかられての難行苦行によって達成できるものでもありません。それは聖霊の時期に応じた、聖霊の方法による、聖霊のわざであって、私たちの責任ではありません。私たちの責任は、ただ御言葉と聖霊の導きに対する信仰と従順のみです。ですからぺテロも「聖なる者となりなさい」ではなく、「聖なる者とされなさい」と言っているのです。

ここに自分を見て失望する必要のない、神の御手にすべてをお委ねして安息していることができる根拠があります。実は自分では不可能であると知ることは解放です。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをして下さいます」とあります(1テサロニケ5:23、24)。この約束に安息すればよいのです。

私たちはすでにキリストのご自身の捧げ物によって聖なる者とされ、永遠に全うされています(ヘブル10:14)。そしてその客観的事実に基づいて、私たちの信仰と従順において働かれる聖霊のわざにより、再条件づけされることによって、内にいますキリストの御性質に従った感じ方・考え方・立ち居振る舞いをすることができるようになり、神の御性質に与り、表現する者とされるのです(1コリント6:20;ガラテヤ4:19;コロサイ1:22)。

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