2009年5月25日月曜日

thinking...

週末の疲れや具合の悪さは木曜日に受けた点滴(骨を強くするお薬)の副作用だったと今ごろ気づき、そしてそれも抜けたようでまた気分が良くなってきました。今朝は掃除機をかけ、洗濯をし、お昼はお好み焼きを作って食べ、午後注射に行って帰りにコンビにで買ったスタバのスキニーラテを飲みつつ書いております。久しぶりのコーヒー。これ美味しいです。*^^*


最近「いのち」について考えています。すでに与えられている主のいのちが私たちから流れ出るコンディションについて。この理解で、生き方がずいぶん違ってくるのじゃないかと思っています。整理できていませんが…

私たちは皆、完成の途上にあって、内なる主のいのちの成長はまだ途中。内側で御霊が待ち受けていて、御言葉(真理)がそこに語られることでいのちは成長してゆく。(この御言葉が内側に語られるというのは、主が与えられる様々な経験の中で主が教えてくださることを含むと思います。)いのちが成長するというのは、内側にもっとキリストが満ちてくるということ。オレンジジュースでいっぱいのコップを揺らせばこぼれるのはオレンジジュースであるように、主のいのちで満ちた人からは主のいのちがこぼれる。(これは、そう感じる、というのとは違います。)
主に向き、霊において主をよりクリアに見ることで私たちは変化する。深いところで真理を理解し、主の愛に圧倒され、主に捕らえられ、平安と喜びに満ち、嫉妬や恐れや不安はその場所を失う。ただ愛する方に仕えることだけを願い、自己から解放される。これは普通1日にして起こることではなく、生きている間がその過程。
これらは多分同じことで、コンディションの一つの面。自分の思いや感情ではなくて御言葉を選ぶことがこの過程で行われていて、もちろんそこには信仰が働いている。

もう一つは、今コリンの本で読んでいることだけれど、語るとき、自分の考えを下ろして主に聞くという姿勢(主の権威に服する)…そして、それを生き方とすること。真理を語ること、御霊によって与えられる内なる主の言葉を語ることで、主が流れる。つまり、主のいのちが流れるには十字架という出口がないといけない。コリンはこれを40年行ってきた。彼のメッセージを聞いていると、語っている中で主の心が明確にわかっていることが良くわかります。そして主の感情がストレートに流れてきます。

主の十字架への信仰、というより、主が十字架で成し遂げてくださったことが土台。そのまんまで自然に流れる分と、意識的な訓練が必要な分。自然に純粋なオレンジジュースが流れ出るのは先のお話。ということで、日々真理を携え、食し、自分を下ろして主に頼ることを習慣とする。そんな淡々とした歩みが人々に主のいのちが流れる結果となるのでしょう。その時、流れた、という感覚は本人にはないのじゃないかな。人の反応に驚くだけ。知らなくて良いのかもしれません。

この2つは関わりあっていると思います。いのちのことをもっともっと深く知りたい。単なる知識としてではなく、living realityとして。わかっているようでわかっていない。まだ活字をたくさん読むことはできないけれど、主に問いつつ楽しい思い巡らしは続きます。。。

Does it make sense?

*   *
以下はオースチン・スパークスの"The Persistent Purpose of God"から拾ったものです。

神がご自身を委ねる条件

1.神が成してくださったこと…キリストの十字架がすべての義を全うしたこと、そして私たち(教会)がキリストへの信仰によって、天にキリストと共に座していること。それが教会における栄光への道を備える。

2.主イエスの栄光が私たちの唯一の目的となるとき、御父が御霊によって来てくださる。

3.御子に委ねられたすべての権威が認識され受け入れられたとき。

4.キリストからの評価によってすべてが量られるとき。

5.十字架が治めるところ。十字架の意味(目的)が明言され(laid down)、確立したとき。

もう一つ同書より:

霊的な価値は、それがキリストの大きさをどれだけ増すか、にある。聖書の解釈がキリストであるなら、聖書の霊的な知識を得る結果は、キリストが増すことになる。そして、それは神の究極的な目的に寄与する。だから私たちの質問はいつも「その中にキリストのいのちはどれだけあるか?」でなくてはいけない。

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