わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。(エゼキエル37:12)
見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。(エゼキエル37:5-6)
すると、谷間に満ちていた骨が互いにつながり、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がそれを覆いました。そして彼らのなかに息が入り、彼らは生き返り、自分の足で立ち上がったのです。
…あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。(v14)
完全に主の御わざ。主の御言葉の働き。
主は御心を言葉にし、その言葉によって御心をご自身で成し遂げられる。主の創造の御わざ。
ここに死と復活が働いている。私たちの完全な死が、主の始まり。
「完全な死」って、考えてみれば変な表現。人は死んでいるか生きているかのどちらかなわけで。。。
死んでいなければ生きてる。生きていれば復活はない。当たり前のこと。
復活において私たちは主を知り、主をほめたたえる。
日常の一つ一つの小さなことにおいてもそう。
死に戻るとき、安息と喜び、主への期待が心を満たす。
思い煩いや葛藤は終わり、平安が満ちる。
主である方。あなたが成してくださる。
ただ信頼し、静かにして、待ちます。
あなたの心が私の心の中に流れてきます。それを見つめ、味わい、そこに留まりましょう。
ご自身の言葉を、ご自身のときに、ご自身の力で成就される方。
あなたをほめたたえます。
世に生きている間は断続的な死。しかし死の領域は御霊の導きによって拡大する(as you let Him)。復活の領域の経験は、その領域次第。 パウロが語ったように、それを捉えるように追い求める。そのために、主は私たちを捕らえてくださったのだから。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:10-14)
パウロの目標、その「一事」が見えてきた。
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