2009年6月10日水曜日

主の学校

おととい、範囲(制限)の中に生きることを書いた。この範囲とは主の私に対する御心と言っても良いかもしれない。それは、行動にも思いに与えられる範囲。主が与えてくださる枠であり、その中には主の強い守りがある。

体が長いあいだ弱さにあるとき、これはとてもわかりやすい。体に聞くことは、内なる主に聞くことと似ている。自分の思いが強いと、容易に体の状態を無視してしまい、痛い目に合う。

声が少ししか出ないことや、体力がないことで、主は自分の何かを下ろすことを教えてくださってきた。何せ、主張するエネルギーも、巻き込まれるエネルギーもないのだ。自分を責めるエネルギーも、誤解を解こうというエネルギーもない。疲れを覚えるのが早いので、下ろすこと、主に逃げ込むことが早くなる。

調子が悪いので横になって休んでいると、こんなことしていていいのかな、という思いに捕らわれることがある。でも、そこで動き出そうとするのをストップできるようになった。体がちゃんとしてくれば自然に動きたくなる。それを待つこと。
昨日は午前中からとても気分が良かったので、久しぶりに電車に乗ってウィンドウショッピングにでも行こうかと考えはじめた。でも、どこを歩いて、何をして、と考えていると不安を覚える。この不安はストップのサイン。午後はやはりあまり調子が良くなかった。早く普通に行動できるようになりたい、という思いがあり、主にも「元気になりたいです。」と願っているけれど、主に委ねるのではなくて自分の思いが勝ってしまうと、もう範囲から出ている。

主の御手にあって、病は効果的な道具。それ自体が何かではなくて、そこで学ぶことは宝石のよう。学んでそれが自分の一部となれば、経験はただの抜け殻となる。「すべては主であり、私は何もできない」と知ったことが一番の学び。希望と平安、喜びはそこにある。すべてはそのための配剤。

範囲は毎日、時々で違う。自分で決めてしまってはいけない。ただその時その時に聞くこと。体に聞くことは、御霊に聞くことの備え。主は世で「範囲」を与え、永遠のことを教えてくださる。

2 件のコメント:

  1. emiさん、
    ものすごく大切なことをお分ちくださってどうもありがとう。
    以前、『境界線』という本を翻訳しましたが、境界線とは、まさに主が与えてくださる範囲(制限)であり、枠のこと。
    emiさんのpostを読んで、いろんなことがストンと腑に落ちました。


    こうして病にあるemiさんに主が語られ、それをemiさんが分かち合ってくださることで私たちにも主の恵みが流れ込んでくる… こういう神様の方法に、ただただへりくだらされます。

    emiさんを通して、霊の養いをいただいています。
    どうもありがとう。
    主の御名をたたえます。
    続けて祈っていますね。

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  2. はちこさん

    こちらこそ、お祈りによって支えられています。いつもありがとうございます。
    主のいのちは御体の中で循環するのでしょうね。

    はちこさんのご健康をも主が豊かに支えてくださいますように。
    ご家族の皆さんへもどうぞよろしくお伝えください。

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