<Sugarさんのブログより>
これは真に狭い道です。しかし、困難な道ではありません。
なぜ狭いのでしょう。それは私達の総ての歩みが「神の御こころ」
によって規制されているからです。
この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は残されて
いません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、私達をこの道から
運び去るでしょう。
しかしながら、この道は困難な道ではありません。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が一つ一つ
砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、その時
必然的に、私は困難な道であるとは感じないでしょう。
残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を歩いて
さえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に到達する前に
この道から離れてしまいます。
しかし、その困難な期間が長いか、短いかに関わらず、一つのことは
確かです。唯一のこの道は命の道です。これは神の道です。それ故、
それは真実であり、確実です。
豊富な命を願うなら、誰でもこの道を歩く以外に選択はありません。
(先人の言葉より)
<Dr.Luke's IDLE UTTERANCEより >
4月25日
彼らは焼き物師で、ネタイムとゲデラに住み、そこで王の近くにとどまって王の仕事に従事した。-1列王記4:23
ダビデは有能な人材をたくさん持っていました。ある者は将軍たち、ある者は門番たちでしたが、それは王が彼らを任命したとおりでした。私たちも同様に、自分の意志に従ってではなく、神が委託された役目を、将軍であれ、門番であれ、それを喜んで受けるべきです。あなたがクリスチャンであるならば、神は必ずひとつの道程をあなたのために用意されています。それはかの使徒が第二テモテ4章7節において「工程」と称しているものです。パウロの工程だけでなく、すべての神の子たちの工程が神によって明確に定められているのです。よって私たちはみなその神の定めた工程を知り、その中を歩む事が何よりも重要になります。「主よ、私は自分をあなたにお捧げします。あなたが定めた道を歩むことだけを願います」と。これが真の聖別です。もし私たちが人生の終わりにあって、パウロと共に「私は私の走るべき工程を走り終えた」と証しすることができたら、それは何と言う祝福でありましょうか。なぜなら私たちが生きるべき道はただひとつであり、人生の終わりにあって、自分が間違った道を歩んでいたことを知ることほど悲劇的なものはないのですから。 (ウォッチマン・ニーの黙想集『荒野に宴をもうけ』から)
あちこちから主のメッセージが伝わってきますね^^ 感謝します。
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