2009年6月2日火曜日

consuming fire

捧げられたものを主はどうされるでしょうか。主のお取り扱いとは何でしょうか。捧げものは祭壇に置かれ、焼き尽くされます。
主が許された試練の中で、私たちは自分のすべて…思い、感情、わざのすべてが、主の前に無であることを知らされます。自分の信仰、自分の頑張り、頭にある御言葉や祈り、判断力、ねばならないとか、こうであるべきという思い、心を置いていた人たちのこともすべて、そこで削ぎ落とされて行きます。主は自らを捧げた者たちを、いつか必ずそこまで追い込まれるでしょう。
そこで私たちは叫ぶでしょう。「私には何もありません。主よ、助けてください。」いや、そんなことを言う余裕すらないかもしれません。

この経験を超えて、私たちは元気なときでも実は自分では何もできないのだということ、自分が持っているものや自分のわざが木、草、藁であったことを理解します。私たちの主が、「わたしは自分からは何もできない。」と言われ、全面的に御父に頼っておられたのです。
永遠の実を成らせることができるのは神だけです。そして私たちが信仰の創始者であり完成者である主から目を離さないでいるなら、この方だけに信頼するなら、知らないうちにその実は実るでしょう。与えられている情況の中にどれだけ主を見れるか、それはその人の焼き尽くされる経験による霊と魂の分離にかかっているようです。これは恵みです。

主に「信仰の薄いものよ。」と言われ、「その通りです。だから心を尽くしてあなたに頼ります。」と大いなる喜びを持って言えるようになったらオッケー。湖の上で嵐になったら、船の底で眠っておられる主を揺り起こしましょう。

主よ、あなたでないとだめです!!

(これは、今朝交わったある姉妹との似通った経験による共通の結論です。それぞれに与えられる困難の種類は違っても、主が導かれるところは同じ。そしてほめたたえられるのは主だけ。人はそれを喜ぶだけ…いや、それこそが本当の喜びです。こういう交わりは時間を忘れ、話が尽きません。)

2 件のコメント:

  1. 愛知県さっちゃん2009年6月3日 0:05

    アーメン、アーメン♪

    「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である」エゼキエル37:11

     焼き尽くされて、何も残っていない、まさに信仰も、祈りさえも、自分からのもの全てが燃え尽きてしまって・・そんな時、触れた御言葉でした。
    「これらの骨・・・わたしだ。」とわかった(知った)のです。
    まさに干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られた・・というところにまで追いやられ・・ました。

     そして、「干からびた骨よ、主の言葉を聞け」・・と。

    まぶしい光のように御言葉が差し込んできました。

     「わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたはわたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返るわたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」

    十字架の死と復活がリアルなわたしの出来事として迫ってきたのです。

     >与えられている状況の中にどれだけ主を見れるか、それはその人の焼き尽くされる経験による霊と魂の分離にかかっているようです。これは恵みです。

    アーメンです。

    焼き尽くされる経験、ただ焼かれるのではない、焼き尽くされること・・キリスト経験とはまさに「私たちの神は焼き尽くす火で」あることをリアルな体験として知ることですね


    そこにまで至ることはなんとまれなのでしょう。そして、そこに至るまでの全てが恵みであったことを、静かに思い巡らしています。

     
    キリスト者にとって、最もよいもののように見え、手放しにくい、もっとも大切と思われている「信じる」ことにすら、〔ここが本当に問題で、強い人ほど絶対手放さないのです。必死に信じようとするのですね。試練の真っ只中で。だから変に生焼けになって、臭ってくるわけで・・。)

     焼き尽くされた人は本当に幸いです。

     死をくぐり抜けて移されたいのちの豊かさは、もはや、「信じます」と言わず、
    「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししている」というイエスの信仰の中にいることに気がつき、「わたしの安息」とおっしゃるイエスの安息の中に安らいでいることを知るのです。

    「墓から引き上げるとき、あなたがたはわたしが主であることを知ろう。」

     主であることを知る、主がなさったことを知る、まさに墓から引き上げられたときです。十字架と復活を通してのみ、わたしたちはこのお方をリアルに知る
     本当に十字架は全てのことの鍵ですね。

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  2. お証しをありがとうございます。エゼキエル書の箇所、まさに、ですね。

    ただ主を喜ぶ喜びに入れたことが嬉しくてたまりません。主の素晴らしさが無限であるゆえ、この喜びもまた絶えることがない、というわくわく感。これまでの不安定さとなんという違いでしょう!
    そして、御霊の直接の教授の素晴らしいこと!

    恵みゆえに、復活ライフはever increasingであります。

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