2009年6月7日日曜日

learn from Him

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:29)

これは今、目の前に置かれている御ことば。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:23)

御霊の実の中に、「謙遜」という言葉がない。たぶん、それは実の土台のようなものであるから。そして謙遜はまた、主の偉大さとその恵みを知るに応じて内側に生じる認識だからなのだと思う。
主の謙遜を知り、恵みというものを真に理解するということは、人が自らを知り、理解するということ。そしてその結果、主への感謝と賛美の中に自分を失って行くこと。

一生主を知ることを追求しつづけたある著名な聖徒が、死の直前に天の実際を見せられたとき、「ああ、私は何も知らなかった。」と言ったように、私たちも一歩進む毎に、自分は何も知らなかったと知る。

人となってくださり、人に仕え、十字架についてくださり、人の間に幕屋を張られる主。主のくびきを負いつつ、優しくへりくだった主から学びたいと願う。

神と人に対する聖徒のすべての関係は、全き謙遜によって特徴づけられなければなりません。これがなければ、真の意味において、神の御前にとどまっていることはできません。また、神の恩恵と、神の御霊の御力を経験することもないのです。これなくして、永続的な信仰も、愛も、喜びも、力もないのです。
(謙遜とは)私たちが神に持って行く何かではなく、神が授けてくださるものでもありません。それは全く無であるという感覚であり、私たちが真に神がすべてであることを知るときに得る感覚、そしてその中で私たちは神にすべてになっていただくために道を譲るのです。
(アンドリュー・マーレー)

謙遜は、知った結果としての「感覚」。主が生きてくださる土壌。 持とうとして持てるものではなく、「神がすべてのすべてであられることを私たちが悟った」結果、自然に生じるもの。

*    *
自らが光ることはないけれど、照らされて光る月の喜び。

朝露で輝く葉の栄光。

恵みの前にただひれ伏す。

溢れる深い喜びと感謝。

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