2009年7月22日水曜日

見えてきたこと

人や状況に心を置いているときの心理状態…私は不足している。

主に心を置いているときの心理状態…私はすべてを持っている。そして何でも起こりうる。


人や状況から主へと心を移す方法は、十字架。
自分で自分をどうにかしようということをやめ、そのままを主に持って行く。感情を却下し、忙しく働いて思い煩いを作り出している思いを静め、心に与えられた御言葉に集中し、その言葉どおりに為さってください、と主に主導権を譲り、委ねる。主が十字架で成し遂げてくださったこと…自分についての真理を語り、感謝する。

主の豊かさは、主以外に心を置いているときには覆われて見えなくなっている。主に向いて初めて触れるもの。触れる結果もたらされる平安、満足、安心感、喜びは、その他のものの影を薄くする。物事は当然こうなってゆくだろうという、人の狭い視野から解放される。心の中で働いているのは信仰。真理に立った理解。主の思い、感情。

キリストの信仰とは、キリストの視野。ここに入れられるとき、そこにある勝利を味わう。奥義はその真理の中に入ってやっと見え始める。言葉を外側から見ていてもわからない。外から見えるのは、ただの言葉の羅列。

神は私たちに物はくださるけれど、いのち、愛、癒し、力などは主ご自身に属するものであり、瞬間瞬間与えられるもの、と、マーレーが書いていた。だから、今はあっても、次の瞬間はないかもしれない。あるいは今はなくても、次の瞬間与えられるかもしれない。主はいつもおられるけれど、その実際を経験することは私たち次第。一度主に依存したからオッケーではない。依存し続けなくてはいけない。自分を下ろし、主を見続けなくてはいけない。

人についても状況についても、主に心を置いた状態で見るとき、全く違うものが見えてくる。
いつも主を向いていたい。

だれでもわたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。(イエス・キリスト)

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