2009年8月23日日曜日

共有

救いを受けた私たちがこの地での成長において経験することは、それぞれの状況は違っても、内容は同じ。それはキリストを経験することに他ならないから。入り口は主。方法も主。実も主。他にはない。

下のニーの言葉にあるのだけれど、例えば信仰、祈り、聖別というものは、ある人が経験し、それがその人のいのちとなったら、他の人に伝えることができ、彼らもまたその同じものを求めるようになる。(それ以前ではただ実体のない用語が伝わるだけ。知識を伝えるだけでは何もならないわけ。)

話がそれそうだけれど、言いたいことは、全く「同じもの」が伝わっていくということ。同じものの内容は、主のいのち、主そのものなのだ。この受け渡しにより、人の中の主のいのちは少しずつ成長して行く。御言葉はまさにそれ。主ご自身の言葉や聖徒たちの経験、いのちとなったことが、御霊によって読む側に届く。それが、私たちにいのちを与える。

いのちは部分ではなくて、まるごと受け渡しがされる。それが同じ主だから、経験を交わることができ、共有でき、また証に励まされる。
同じものが伝わるために、私たちが細心の注意を払わなければならないというものではない。人が主に求めるとき、主はご自身を与えてくださるのだから。それが同じものだということは、交わりにおいて確認できる。というか、それを確認できる交わりがある。それは初めて会う遠い外国の人との間にだって起こる。得ているものが教えであるなら必ず相違は生じるけれど、「人」を得ているのだから、違うはずがないのだ。見えている程度、触れている程度に差こそあれ、同じ実体に触れているということは容易にわかる。

キリストの経験、そして共有。これほど素晴らしいものがあるだろうか。

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