2009年8月28日金曜日

復習-真の交わりとは

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネ1:3)

クリスチャン同士が知り合い、話をすることがすべて交わりではない。一人一人がキリストを中心とする同心円上にいること、それぞれの心がしっかり主を向いていることで、この真の交わりであるキリストの交換が発生する。主との交わりが深くなるほどに、同じような人との間に磁石のような引き寄せが起こる。物理的に近くにいるとか、会う回数が多いとか時間が長いからといって、これは起こるものではない。
Saltさんがよく言われているように、人が人を向くとき、この同心円はすぐに崩れてしまう。交わりのようで交わりでない、非生産的な関わり、誰の祝福にもならず、本人は苦しく、主の永遠の目的とは全くかけ離れた状況がそこに展開する。

まず大事なのが、それぞれが自立して主に向かっていること。これがあれば、交わりは自然に発生してくる。
形も方法も媒介もその時その時。人数だってそう。主に向いている同士であれば、交わりは必ず成長すると思う。そういう条件のもとでは具体的に交わっていない期間が長くても、いくら距離が離れていようとも、交わりが後退することはない。

こんなことを書き始めたけれど、実際に私たちが何年も、あるいは何十年もかけて学んできた十字架とか交わりといったものは、パッケージにして後を歩んでいる人たちに渡せるものではない。頭の知識ならいくらでも渡せるかもしれないけれど、それぞれが主から与えられた経験を通して、大変なところも通りつつ主から直接教えられ身をもって知ってゆくかないから。

まず真理の知識、御言葉が与えられ、受け取る。それは入り口。旅はそこから始まる。その言葉が意味しているものを本当に知るには時間がかかる。真理は単純であっても、それがいのちになるのは簡単なことではない。でも今思うのは、先を歩み変化し続ける人たちの存在がこの過程を促進するということ。それを生きる人の存在は、人々に真の渇きを与え、その人ではなくそこに確かに現れている主が、求める人を魅了するから。真に主を愛する人は、他の人から流れる主の香りを感知するものだと思う。そして、心は人ではなく主に向けられて行く。

キリストの交換という交わり。御父と御子との交わり。これは一人一人が十字架を負いつつ、たとえ離れていても互いに作用しつつ、さらに深くなって行く。交わりをめぐる御言葉の奥義、主の方法がさらに明らかになって行くのをさらに見てゆけることが楽しみ。

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