十字架がわかり、日常の経験になったら、あとは死に留まりつつ信仰による歩みが成長して行くことが課題。
この間、しばらく聖書語句辞典で「信仰」を引き、色んな御言葉を読んでいたけれど、信仰だけでこんなことが起こるのか、ということばかり。そして主は信仰を本当に喜ばれるのだ、と。私たちが世にあって約束の地の良きものを実際に味わって行くことを主はどれほど望んでおられるか。それが世に与える影響はどれほどのものか。
信仰は、「自分では何もできないので何もしない。でも主が必ずお言葉のとおりに成して下さる。」と言う。主は主に委ねている「人」を用いられることにしているので、当然人には器として何らかのアクションがある。自然に御霊に促された祈りや行動など。そして、起こることを先に見るわけなので、その備えを始めるとか、まだ起こっていないのに喜び、感謝し、主をたたえることとなる。楽だけれど、労力が要らないわけではない。苦労だってあるはず。でも主の素晴らしさや主にある安息と喜びは何ものにも変えられないほどにその人を圧倒して行くはず。
御心が天において成されるように、地においても成りますように。
主の祈りを主と共に祈る。
「使徒の働き」の続きが見たい。主の大いなる栄光がこの地に現れますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿