
十字架、死に留まること、復活の領域での経験などは、それを言葉などで教えたことで相手が即経験できるものではないけれど、ある程度の説明はできるし、その型は御言葉の中や人々の経験の中にあり、経験した人たちは容易にその見分けができるものだ。交わりにおいて、それぞれの状況に違いがあっても、少し話をすれば、それは同じ方による同じ経験であることがすぐにわかる。そこにいのちが流れ、キリストの共有が起こる。実際、何人かの方たちとの間でそのような交わりを経験している。
そのような交わりを含むもっと広い意味での交わりには、本当に個性的な方たちが多いけれど、その人たちが、そして私が主を向いている限り、少なくともその中心であるキリストを共有し、素晴らしい交わりが発生し得る。そして私たち個人が十字架を負う歩みを続け、主を知れば知るほど、私たちの交わりはより深く素晴らしいものになるだろう。そしてまたそれは自然に外に向かって影響を与え始めると思う。
交わり、というか、主の摂理による兄弟姉妹の関わりの中では、互いを研ぎあうということが起こる。人に近づけば近づくほど自分の心の問題があらわになるのと同時に、信仰面でのズレにも気付く。あの人は私が見ていないものを見ている。自分が持っていないものを持っている。それがあの人の言動に影響を与えている。そのような人の存在から流れる証は、心が主に向いている人、真に主を求めている人にとって真の飢え渇きとなる。
交わりというものには、以前思っていたより遥かに大きい働きがあることを感じている。それは成長の場であり、主が創造を行う場、主の栄光が現れる場。そこでは、そこにいる人の意図することを超えて、低くされた人たちに主が働かれる。実際に顔と顔を合わせての交わりも重要だし、それ以外…もっと日常的なネットや電話などを媒介とした交わりも重要。その交わりが麗しいかどうかが大事なのではない。良い雰囲気とか、気持ちの良さなどもあまり関係ないと思う。そこで自分を見せられていたたまれなくなったり、自分より後を歩んでいると思っていた人が先にいることに気付いて驚いたり。気まずさ、居心地の悪さなども、主からの何らかのサインかもしれない。自分が正しい人は殆ど何も受け取れないと思うけれど、真に主を求めているなら、相手のうちにおられる主のいのちを慕い、そこから受け取るものは大きい。
永遠の道を歩み真に主を求める一人一人に、先を歩む人、同じところを歩む人、また後を歩む人が与えられていることを感謝します。御霊にあって真の知識、経験へと矯正されつつ、「一点」であるキリストをさらに得、交わりの中でいのちの受け渡しが活発に起こってゆくようにと祈ります。
〔このキリストの体の構築は、最終的に〕私たち皆が信仰の一体性に、そして神の子の認識の〔一体性〕に、完全な人に、キリストの充満の〔持つ〕規模に到達し、もはや未成年者ではなく、人間たちの賽子(さいころ)遊びまがいの、〔人を〕欺き惑わすだけの奸計じみた教えの〔送り出す〕どのような風にも〔挑発されて〕荒波立てたり振り回されたりすることなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点でこの方、すなわち頭、キリストに向かって成長を遂げるまで〔続く〕。体全体は〔頭である〕この方の側から、〔それを〕支えるためのあらゆる関節を通じて〔部分部分〕相互に接合され一つに結び合わされ、各々の部分に即した働きに応じて愛にあるそれ自身の構築へと体の成長を押し進めてゆくのである。
(エペソ4:13‐16 岩波訳)
そのような交わりを含むもっと広い意味での交わりには、本当に個性的な方たちが多いけれど、その人たちが、そして私が主を向いている限り、少なくともその中心であるキリストを共有し、素晴らしい交わりが発生し得る。そして私たち個人が十字架を負う歩みを続け、主を知れば知るほど、私たちの交わりはより深く素晴らしいものになるだろう。そしてまたそれは自然に外に向かって影響を与え始めると思う。
交わり、というか、主の摂理による兄弟姉妹の関わりの中では、互いを研ぎあうということが起こる。人に近づけば近づくほど自分の心の問題があらわになるのと同時に、信仰面でのズレにも気付く。あの人は私が見ていないものを見ている。自分が持っていないものを持っている。それがあの人の言動に影響を与えている。そのような人の存在から流れる証は、心が主に向いている人、真に主を求めている人にとって真の飢え渇きとなる。
交わりというものには、以前思っていたより遥かに大きい働きがあることを感じている。それは成長の場であり、主が創造を行う場、主の栄光が現れる場。そこでは、そこにいる人の意図することを超えて、低くされた人たちに主が働かれる。実際に顔と顔を合わせての交わりも重要だし、それ以外…もっと日常的なネットや電話などを媒介とした交わりも重要。その交わりが麗しいかどうかが大事なのではない。良い雰囲気とか、気持ちの良さなどもあまり関係ないと思う。そこで自分を見せられていたたまれなくなったり、自分より後を歩んでいると思っていた人が先にいることに気付いて驚いたり。気まずさ、居心地の悪さなども、主からの何らかのサインかもしれない。自分が正しい人は殆ど何も受け取れないと思うけれど、真に主を求めているなら、相手のうちにおられる主のいのちを慕い、そこから受け取るものは大きい。
永遠の道を歩み真に主を求める一人一人に、先を歩む人、同じところを歩む人、また後を歩む人が与えられていることを感謝します。御霊にあって真の知識、経験へと矯正されつつ、「一点」であるキリストをさらに得、交わりの中でいのちの受け渡しが活発に起こってゆくようにと祈ります。
〔このキリストの体の構築は、最終的に〕私たち皆が信仰の一体性に、そして神の子の認識の〔一体性〕に、完全な人に、キリストの充満の〔持つ〕規模に到達し、もはや未成年者ではなく、人間たちの賽子(さいころ)遊びまがいの、〔人を〕欺き惑わすだけの奸計じみた教えの〔送り出す〕どのような風にも〔挑発されて〕荒波立てたり振り回されたりすることなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点でこの方、すなわち頭、キリストに向かって成長を遂げるまで〔続く〕。体全体は〔頭である〕この方の側から、〔それを〕支えるためのあらゆる関節を通じて〔部分部分〕相互に接合され一つに結び合わされ、各々の部分に即した働きに応じて愛にあるそれ自身の構築へと体の成長を押し進めてゆくのである。
(エペソ4:13‐16 岩波訳)
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