2009年9月1日火曜日

朝の思い・・気付いたことをつらつらと

神の方法は、見せること。
神ご自身を。そして神が成されたことを。

私たちに与えられたのは、信仰。
信仰によって、見えないものを見る。
見えたつもりになるのではなく、想像するのでもなく、
こちら側の信仰を合図に、主がご自身を現してくださる。

闇を解決するには、各自が懐中電灯をつけるしかない。「光を照らせば、誰にでも同じように見える」これが、本当に光がついている状況である。このとき、個人の入出能力、つまり脳みその出来不出来は関係ない。よろしいですか。これが「信仰」の結果。神が人を信仰によって測るというのは、極めて公平な判断基準なのだ。 (Saltさんの「地下壕で学んだこと」より)

信仰。
この、小さな子供からお年寄りまで、誰にでも持つことのできるものを、
神はご自身を知らせる手段とされた。
そして、信仰を通して「見た」ら、もうそれがすべて。
皆の口は塞がれる。

見れば見るほど、人は安定し、幸福になる。
主は義であり、愛であるから。
主を愛し、主の愛はその人を満たす。

信仰は、人の心を主に向ける。主より素晴らしい方はいないから。
主が与えてくださったもの、そして与えつづけておられるもの以上のものはないから。

そして、人の心が主に向くとき、その目の覆いが取り除かれて行く。
そして、さらに主を見る。
主が私たちのために得てくださったものを見る。
主のご目的を、見る。

主に向くたびに、向くほどに、少しずつ、少しずつ。


心が騒がしくなったら、主に静めていただき、主を向く。

「静まれ」
その言葉は、権威を伴った命令。

「恐れるな」
これも。

私たちがそうなる努力をするのではなく、ただ受け取ればいい。
主は私たちに状態をお見通しで、恵みを与えるために、それを命じてくださるのだから。

もがいたら、受け取れない。私たちが働けば、主は働けない。
ただ、信じ、感謝して受け取る。

「お言葉どおり、この身になりますように。」

主のお約束はみな、そうやって受け取ればいい。

御言葉に合わせるのではなくて、御言葉が私を捕らえる。
私がすることは、御言葉に向き、信じ、受け入れること。


心の中にある偶像。
主は、決してそれを自ら破壊されない。
主の言葉はいつも、「わたしに来なさい」「わたしに戻りなさい」

それは、主を知ったときに自然に落ちるものだから。
世にあるもので、主に比べられるものなどない。
主を知れば、2人の主人に仕えられるはずはない。

主はご自身を隠しておられる。
主の言葉もまた、皆が読むことはできても、隠されている。
真に主を求めて主を向く者たちに、その奥義が明かされて行く。

知性ではない。霊の目が、ただ「見る」ことによって。

幼子たち、世の小さい者たち、貧しい者たち、弱い者たちに。


どんなときにも主に戻り、自分の十字架を負い、幸いな死に留まろう。
唯一の安息の場所に。

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