2009年10月12日月曜日

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自分を知ること

思考するとき、その焦点を自分自身に置くのではなく、神と神がどういうお方であるかにおくべきです。イエスにあって神があなたのためになして下さったことにおくべきなのです。神はあなたを過去に生きるようにではなく、神があなたに与えられた新しい命の力に生きるように召されたのです。
 イエスが十字架上においてあなたのためになされたことを通して、あなたは自由とされ、「神の子の栄光の自由の中」を生きることができるようになったのです。あなたは新しい創造です。彼を信じる信仰によって神の子なのです。神は天のところからあらゆる霊的祝福をもってあなたをキリストの中で祝福されます。彼はあなたをご自身の勝利の行列に導かれます。神はキリストにある栄光の富をもってあなたのすべての必要を満たされます。神はあなたの命と敬虔のために必要なすべてのものを与えられます。


キリストのうちにある

彼を信じるとき、神は暗闇の王国からあなたを救い出し、神の愛する御子の王国の中へともたらして下さいました。あなたはキリスト・イエスの中にあるのです。あなたがそれにふさわしいからではなく、神の愛と恵みを通しての恵み深いみわざによるのです。あなたはキリストの中に住んでおり、そこにはなんらの罪定め、不健康、苦痛あるいは病気といったものはないのです。
 私たちは皆そのような事柄を経験していますが、それは神が意図されたようにキリストの中に私たちが完全に生きていないからです。イエスは御父の御心を完全に行いましたから、彼は罪とか病気に対して決して屈しませんでした。罪と病気に立ち向かうために、また癒しの御力と神の恵みに対してもっと開くために、私たちは自分がキリストにある者だという幻の中に生きる必要があります。私たちの生活において神の癒しの御手によって触れていただくだけでは十分ではありません。神は私たちにどのように健康の中を歩み、病気に立ち向かうかを教えることを願われるのです。

 彼は約束されました。もしご自身の言葉があなたの中にとどまっているならば、あなたが求めるものは何でもいただけるのです。彼はあなたの必要に応えるばかりか、あなたの心の願いをよしとして下さっているのです。
 「そうすれば与えられるであろう。」この約束をあなたの心の奥深くにとどめなさい。「そうすれば与えられるであろう。


イエスが歩んだように歩む

 あなたはイエスがその人間性にあったときとまったく同じ力と備えをもっているのです。彼は御父に対してまったく従順であったがゆえに、これらの備えのすべてを用いることがおできになりました。その力は私たちの罪と不信仰のゆえに、私たちの経験においては制限されています。もし私たちがそれらを認識し悔い改めるならば、神は私たちを赦し、私たちの祈りを喜んで聞いてくださり、それに応えて下さることを私たちは知ることができます。それはイエスの名によって祈っているからです。私たちがイエスの中に生きること、神の王国の子として生きることを追求するとき、彼の名によって祈ることがより効果的にできるようになります。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)。

ここで、イエスにあって得ているものを解き放つ鍵を学んでいるわけですが。何ていうか、癒しというのはその中の1つにすぎず、ある意味きっかけのようなものかもしれません。心に光が当てられていますが、私がここで学んでいることによって、これからの祈りが効果的になるという…これは方法を学んでいるのではなくて、私がどうであるかにかかっているということ。私自身が探られ、今まで見えていなかったところに光を当てられ、真に「まず神の国と神の義を求める」ようになることに招かれているということ…のようです。
ゆっくり進みましょう。。。

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