2009年11月4日水曜日

努力 と 委ねること (memo)

キリストは何かを無償で提供しておられる、いや、万物さえ無償で与えようとしておられる…ある意味では、クリスチャン生活のすべては、キリストのそのすばらしい贈物を受け入れることから成り立っているのである。
 だが、そこには一つの困難がある。われわれが今までやってきたことや、われわれにできることはすべて無である、という認識に到達すること ‐ これがむずかしいのである。われわれが願うのは、神がわれわれの美点だけを数えて、欠点は無視してくれる、ということだろう。だが、ここでも、ある意味からすると、われわれは誘惑に打ち勝とうとする努力をやめない限り ‐ 「参った」と言ってタオルを投げるまでは ‐ 誘惑に打ち勝つことはできないのである。しかし、だからと言って、自分の能力のギリギリの限界まで努力することなしに途中でやめてしまうのは正しくないし、また努力を放棄する正当な理由ともなりえないのだ。

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真剣な道徳的努力(キリストの言葉に従うこと)があってこそ、初めてわれわれは「タオルを投げる」ところまで行き着くのであり、キリストへの信仰があって初めて、そこへ行き着いた後の絶望から救われるのである。さらにまた、キリストへの信仰から、善行は必然的に出てくるのである。

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キリスト教は、初めのうちは、道徳の話ばかり、義務や規則や罪や徳といった話ばかりのように思われるが、やがて、そういうものから出て、もっと先にあるものへとわれわれをつれて行ってくれるものである。キリスト教は、ある国 ‐ そこでは道徳や義務のことは、おそらく冗談で言う時は別として、人びとの話題にもならない ‐ そういう国をかいま見せてくれる。その国では、すべての住人が、善と呼ぶほかないものによって完全に満ちあふれている、さながら鏡が光で満ちあふれているように。だが、彼らはそれを善と呼ばず、また他のいかなる名によっても呼ぶことをしない。そんなことは彼らの頭にないからである。彼らは、その善(と呼ぶべきもの)がそこから出てくる源泉(キリスト)を見るのに忙しくて、自分のことなぞ考えている暇はないのである。

(C.S.ルイス 「キリスト教の精髄」より)

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