skip to main |
skip to sidebar
memo (more...this is older)
いのちには必ず表現がある。鳥のいのち、花のいのち、それぞれに。その健やかないのちの表現は、自然さ、明るさ、解放感、伸びやかさ、さわやかさ、楽しさ、喜び、平安と安息、そして信頼感。どうもサタンはそれらに嫉妬するようだ。
そこに気張りはない。任せているから。自転車も最初は手放しなどできないが、法則をつかめば手を放せる。法則に委ねた結果。同様に私たちも主に対してどこまで手放せるか。いのちの法則をつかめばつかむほど任せることができるようになる。
かくして気張っていた魂から力が抜けるとき、伸びやかな魂の救いを味わう。(Lukeさん)
礼拝者とは・・・
礼拝者とは礼拝の方法を知っている人々のことではない。礼拝者とは、神への敬虔な服従に生きる人々のことである。
すべての礼拝は究極的に神とその御子の主権の認識である。それは敬虔な服従を持って生きるために御座の前に出て行き、また敬虔な服従の生活をするためにそこから出て行くという認識である。
(Colin Urquhart)
私たちにとって大切なのは交わりです。聖書の解釈の違いを超えて、交わりを維持すること-これが最も重要であるとウォッチマン・ニーも言っています。とかく同じ意見で群れる方が楽ですから、そちらに流れるのが人の常。これは世も教界も同じ。違った相手を受け入れることにおいて霊的な度量が問われるわけです。その人を通して流れる神の何かをミスすることのないように。
交わりの本質はいのちにあります。相手に何がしかの真実といのちが感知されるならば、開く必要があります。(Lukeさん)
0 件のコメント:
コメントを投稿