見えるものに支配されるのは辛いことだから、見えるものを視野から消してしまおうとする。
そうじゃなくて、見据える・・・? それは、そこからすでに自分の位置が変わるということ。
見据えながら、見えないものが開けてくるのを待つ。主の約束を握り締めながら。
ただ主に信頼しながら。
最近、頭でわかっていることといのちとして自分の一部になっているものが、自分自身よくわかっていなかったことに気付いている。自分に何かが起こったとき、それがよくわかる。救急車の件で、死自体はすでに怖いものではなくなっていることがわかったのは嬉しかった。
元気なとき、アドレナリンがたくさん分泌されているときには、霊的思考もできる。だけど、そうでないとき、「その時」、役に立つのは、真に身についたもの、すでにいのちとなったものだけだと思う。その時には、すでに身についていないものは出て来ない。頭だけでわかっていることは役に立たない。これまで学んできた真理、主のご性質の中で、どれぐらいがいのちとなっているだろう。これは今、かなり自信がない。「これが本当にわかっていたら、こういう反応をするはずがない」、ということが結構あるから。
死の棘は抜かれた…これは大丈夫。 主は良き方…これは日々増加中。
わかっていないのは、主にある自分の身分かな。
だけどここでまたハードワークは意味がない。いのちを与える御言葉を食しつつ、主に任せ、日々を楽しもう *^^*
今日はまた温泉へ。。。
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