2009年6月14日日曜日

another miracle


結局のところ、その人がどうであるかはその人が主をどう知っているかの表れであり、その人と人との関係は、その人の主との関係の表われ。主が、あるいは人が、良きものを与えたいと願うとき、その相手は豊かになることもできるし、貧しさに留まることもできるものなのでしょう。

これは私自身の経験。物理的に狭い「範囲」に置かれている今、そして主に向くことをさらに導かれている今、主の光があてられ始めています。

心の中でどうにも安定しなかった一つのことについて、御心がどこにあったのか。
見えないゆえに、主が祝福しようとしていたものに対して扉を閉じ、長い間、自分自身を傷つけてきました。
You should be happier than this. 良く聞いていた主のささやき。
光が、幸いが、一瞬見えたけれど、それはすぐに私の中の何かによってかき消されて行きました。

主が与えようとしている幸福を阻止しようと躍起になっている者がいます。主と人の関係、人と人の関係の中に入り、真っ直ぐなものをねじ曲げようとする。それにひっかかってしまう足場が自分の中にあったのです。 でも主に向けば覆いが取られ、主の愛が、光が流れ込んできます。

He has blessed me abundantly. And I'm happier because now I see it.

良き主にある安らぎの中で、ただ単純に、そして真っ直ぐでありたいと願います。 御心を知り、そこに安住できるというのは何と幸いなことでしょう。主が復活の領域で与えてくださるものは、豊かで朽ちることのない永遠のもの。
交わりに、せき止められていたいのちが流れ始めます。 そして安息の中で、心の深い癒しが始まっています。

私たちは、本当はもっともっと幸せなのです。
信仰によって、信頼によって、霊の目がさらに開かれ、主が与えてくださっている事実をさらに見ることができるようにと願います。

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