
ある日、神が彼に啓示を与えると彼は内側で神を知り、彼は真に神を知り、神を真に見るのです。すると何も問題にならなくなります。
「わたしは内側で知りました。わたしの知っていることは思いよりもさらに深く、感覚よりもさらに深いのです。わたしの内側で知っていることは、外側で揺るがす方法がないのです。」
多くの人は感覚によって自分を保っているので、感覚がないとふらふらしてちゃんと立てません。このような光景は神を真に知っていないからです。わたしたちは神にこのようなところまで導かれる必要があります。冷たく感じようと熱く感じようと、平静であろうと興奮を覚えようと、みな問題になりません。なぜなら、わたしはすでに神を認識したからです。わたしの認識はわたしの快楽よりも深く、わたしの認識はわたしの苦痛よりもさらに深く、わたしの認識はいかなる感覚よりもさらに深いのです。外側で楽しみや、痛みなど種々の感覚があるにもかかわらず、それがどうであろうと、わたしの内側で神を知っているのです。兄弟姉妹、ただこのような人だけが揺るがされず、またこのような人だけが神に用いられるのです。
(ウォッチマン・ニー著 「啓示を求める祈り」より)
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネ17:3)
神を知ること…
想像力を働かせ、感覚も動員し、一生懸命主を知ろうとしても何も起こらない。
有効なのはただ、天からかけられるヤコブの梯子。主のほうから伸ばされる腕。
焦らなくていい。求めた時点で、それは主からの促し。
主のときに、主の方法で、主が決めてくださっただけの視界が必ず与えられる。
信頼して待つ。
以前聞いた話だけれど、イスラエル人が「待つ」というとき、それは、家の入り口に寄りかかり、タバコをくゆらせながら先年待つ…そんな感じらしい。せっかちな日本人の待つというイメージとは全く違う。
主に信頼しながら、心の期待を暖めていよう。主は遅くならない。
すでに心には暖かい火が燃え始め、平安が満ちてきている。
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