そして当日…
東京駅で姉妹に会い、再会を喜びつつS病院へ。どきどきしながら先生とお話をしたら、そこには声の専門がないとのことで、ご出身であるJ病院の専門医にその場で紹介状を書いてくださり、姉妹の機転のおかげですでに受け付けが終わっているJ病院からオッケーをもらい、その足で移動。簡単な診察と検査をし、次の予約(8月始め)をし、その時に治療の話をしましょう、とトントン拍子。
半開神経麻痺の治療にどこに行ったらいいのかは、ネットなどで調べても良くわからなかったのでしたが、歩みだしてみると、ちゃんと主がそこに導いてくださる。先を歩んでくださる主の備えを発見し、驚きと感謝に満たされました。それは私たちが主の中を歩んでいる、主の守りの中にいるという事実を確信させ、一歩一歩が主への信頼を深めて行きます。
そして診察室まで同行してくださり一緒に話を聞いてくれた本当の姉のような姉妹の存在。これまで一人で行動するのが当たり前だった私にとって、具体的に重荷を分かち合ってもらうというのはとても嬉しいことでした。交わりが、ただ「話をする」とか「祈り合う」に留まらず、主にある生を共有して行くという醍醐味。主の家族の実際は素晴らしいです。主に開き、主に安心して自分を任せられるようになることは、人との関係をも変えるものであることも知りました。
主は、ご自身の愛を事あるごとに明らかにしてくださいます。平安の理由、それはただ主の完全な愛なのだと思います。そして、その主への信頼を励まし合い、主を共に経験するというのは何と幸いなことでしょう。今、ここに証を書いているのもまた、そのためなのでしょう。見えないところで、もしかしたら誰かと主を共有できているのかもしれません。
私たちが主への信頼と期待をもって歩み出すとき、私たちは主の備えの中に入って行きます。契約の箱を担ぐ祭司たちがヨルダン川に一歩足を踏み入れたときに水が二つに分かれたように。私たちには先は見えません。そして、主が為さることは私たちの思いを超えたこと。私たちが信頼を持って歩むとき、主は主の方法でそれに応えてくださる。私たちの側においては主への信頼が一番大切、とますます思います。信頼とは、自分の限られた思いや感情を下ろして主の永遠のリソースに頼ること。思いを遥かに超える主に心を開くこと。十字架に示された主の愛の中に安息すること。それは自分が死に留まること。これは日々のことであり、大きなことでも小さなことにおいても同じ。信仰はそのすべてに働いていますね。
主がおられるから、大丈夫。愛ゆえに十字架を通ってくださった方が、十字架によって開いてくださった道を通し、ご自身をもって私たちの必要を満たしてくださいます。
地を歩んでいても、私たちはすでに霊である神の領域に招き入れられた者。世と同じ経験をしているようでも、全く違うのですね。実感です。結局のところ御心の中とは、復活の領域、安息、勝利に向かい、そしてますますその中を歩む道。主に目を留めつづけ、その中を大胆に歩んで行きたいです。
to be continued...かも...
* *
来週はがんセンターで血液検査とCT、再来週は骨のMRI、そのあと一週間おいてまた東京です。
memo:
復活の領域とは、頭の知識がいのちとなった領域…かな。
そして永遠のいのちとは、御父と御子との幸いな交わりの中に留まること。
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