
十字架という土台 主を向いてただ存在していればよい、ということ
第一に主に頼った上で、他者にも自分を委ねられる祝福 キリストの香り
主にある出会いの尊さ 行動してみて違ったら主は閉ざしてくださるから大丈夫
折り返し地点 自分への主の導きが、相手の祈りへの主の応えかもしれない
十字架を経験し主を知れば知るほど、主に仕えたくなるよね 慰めの連鎖
どんどん単純になっていくこと 主への信頼
表情に表れる楽になったという確かな変化…お肌のハリは作れても、表情は作れないよ
誰でもどんな状況にあっても、大事なことは同じ…その1日を主と共に生きること
主は私たちが絶えられない苦しみは与えられない
感謝 感謝 感謝
おまけ:主人達へのお土産には、なだ万のお弁当&お惣菜が ◎
なだ万おいしいですよね、ショッピングのついでに買い求めることよくあります。
返信削除煮物もおいしいですし☆°+(*´∀`)b°+°
>十字架という土台 主を向いてただ存在していればよい、ということ
アーメンです
十字架という土台、主に向いて・・、ここ、みそですよね。
主に向くなら覆いは取り除かれる。
しかし、多くの場合、主に向いているようで、その実際は主以外のものに向けられている。
向いていると、思っている。。だけで、その実、向いていない。
しかし、それすらも、わからない。
本当に覆いがかかっている。
十字架こそ、鍵 すべてはここから。
「まことに、あなたを待ち望む者は
誰も恥を見ません。」
「あなたは、わたしが主であることを知る。私を待ち望む者は恥を見ることがない。」
「幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。」
アーメン、ハレルヤ
私は私の愛する姉妹のため、いえ、愛する主の御名のために、主を待ち望んでいます。
あなたは真実をもって答えてくださる方。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い。」
アーメン
さっちゃん、おはよう *^^*
返信削除十字架を越えたところにある真の喜び…主ご自身を喜ぶこと。
その実はやはり「変化」だと思います。
真に主に向いていれば、主の知識は雪だるま式に増えて行くから、その変化もまた続く。
さっちゃんがブログに書かれていた2コリント1章の慰めの個所、W姉妹との交わりでも話していたところです。
主の慰めを受けた人からは慰めが溢れます。
慰めは力。感謝です。