何十年もをすごしたキリスト教の中で、鍵は祈りだ、信仰だ、讃美だ…ということを聞き、学び、実践もしていた。主が為さるのでなければ意味がない、ということも聞いていた。でも、how?…これははっきり言ってわからなかった。
今になってみると、それらはあまり中味のないもみがらのようなものだったことがわかる。それぞれに十字架がなかった。それでもうちなるいのちは、心に与えてくださる願いによって私を導いてくださった。
長く親しんできた言葉が、今、新たなものとなっている。十字架でゼロクリア、学び直し。ここで、やはり鍵は祈りだし、信仰だし、讃美だ。十字架を経たところで、私の力は主の力と置き換わる。私は休み、主が働かれる。主の信仰により御心の祈りがなされ、その成就に讃美が先行する。
今、私は祈りについてまだほとんど何も知らないし、経験していないのだと思う。そしてこれから先を思うとき、期待で胸がいっぱいになる。私にとって特別にハードなこの夏、体調不良でかったるい日々、ボーっとする頭…その中にあって、キラキラしたものが目の前にあり、心の深いところにはこのドキドキ感がある。
御言葉を一貫して流れる主の御心、ご計画が見えてきたことの喜び。主の心に触れ始めた喜び。ここ何年か耳で聞き、頭で理解してきたことを、主の導きのもと、改めて自分で掘り起こした喜び。
真理、十字架を知る方たちの交わりに主が導き入れてくださったことを本当に主に感謝しています。この、今までの教会の常識ではあり得ない交わり…何の約束事も枠もない交わりが、主にあって営まれ支えられ継続しているという不思議。それはそれぞれが主にオープンで、主に向いていることで、淀むことなく川のように流れる。
主が人となられる前には、どんなに素晴らしい信仰があっても見ること、味わうことができなかったものの中に、私たちは今置かれている。世にあって、不完全さの中で、私たちは約束の地の良きものを味わうことができる。古の聖徒たちは、天にあって私たちに声援を送っているのじゃないだろうか。恵みは今、ほんとうにすぐ手の届くところにある。
主が私たちの霊の目を開き、その素晴らしさと、それに与るために与えられた主の方法を見ることができますように。
主が私たちに与えたいものと、私たちが願うものが一つになりますように。
栄光の主をたたえます。あなたの御心が、この地でどんどん進んで行きますように。
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