2009年10月31日土曜日

memo

 主はわれらの主に言いたもう、昇りきたれ、と。わが安息と光輝とにあずかれ、なんじの敵なりし、もろもろの自然が、奴隷となりてなんじの前に踊り、背となりてなんじを乗せ、固き大地となりてなんじの足を支うるまで。

 すべての時とすべての場所のかなたなる真実のところより、権威がなんじに与えらる。かつてはなんじの意志に逆らいしもろもろの力は、なんじの血のうちに従順なる火となり、なんじの声のうちに天の雷鳴とならん。

 われらを克服したまえ、われら、かく克服せらるるによりて、真のわれら自身とならんためなり。われらは、夜明けの露と朝焼けの湿りとを慕うごとく、なんじの支配の始まる日を慕うなり。

 主よ、なんじの真の主はなんじを、永遠に定めたまえり、われらの義しき王、われらの高き司祭として。

*

「先生、とかげがほんとうに馬になったと考えていいのでしょうか?」

「そう。だが、それはまず殺されたのだ。そこのところを忘れてはならない。

…何ものも、もっとも善良かつ崇高なものでさえも、現在あるがままの状態では、あの山に行くことはできない。がまた同時に、何ものにせよ、もっとも低劣かつ獣的なものでさえ、おのれを死に渡すなら、新たなものとしてよみがえらないわけはない。血肉はあの山に行くことができない、それは血肉が鼻持ちならぬものだからではなく、弱すぎるからなのだ。とかげは駿馬とくらべたらお話にもならんだろうが。同時に、情欲なんてものは、それがついに殺されたときに復活する人間の真の願望のあの豊かさ、力強さにくらべたら、泣きごとばかり言っている、おしゃべりの、あわれな弱虫にすぎんのだ

…きみはこう問うべきなのだ。肉欲でさえ、いま見た馬のようなすばらしい身体によみがえることができるなら、母の愛や友情は、どんなにすばらしい復活の身体に変わりうることだろうか、と。」

(C.S.ルイス「天国と地獄の離婚」より)

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