2009年10月2日金曜日

主の学校 3 癒し

自分の中に、どうも体のことは二の次という意識がある。霊的なことが第一。それはそうかもしれないけど、実際は霊と魂と体は相互に関わり合っていて、主の御心はそのすべてが健やかであること。私の意識と主の御心にずれがあることがよくわかる。

喉の麻痺などの不快な症状は増すばかり。他にも体のあちこちに問題が出てきており、検査中のものや、様子をみているものなど…途方に暮れることもしばしば。何しろ、気分が良い日がない。朝起きたときから寝るまである程度の不快さがある。

今、この不快さの中で、病気が続いていることの意味を主が教えてくださっている気がする。それは癒しを学ぶこと。私たちの体についての主の御心を学び、実際にそれに与かること。これまで体の癒しを求めることを比較的劣ったことのように感じてきたのは間違い。不快さにあって健やかさを自然に求めることは、人が健康であるようにと意図された主の御心とリンクしている。

今の私が取り組むべき第一の課題はこれなんだと思う。御心のものを貪欲に求めることに、後ろめたさを感じる必要などない。そろそろdesperateになってきているのも、主はそこに追い込んでくださっているのだろう。これまでの意識の間違いを修正される絶好のチャンス。

病気を通して、主は十字架の意味、死に留まることなどを教えてくださった。そしてそれが一生の学びであることは変わりないけれど、それは病の中だけで学べるものということはない。弱さは病の中にだけあるものではなく、人間そのものの状態。状況がどうであれ人は弱いのだ。あとは認識の問題。
今まで主は病を用いて教えてくださったけれど、結局はそれも「過去の経験」。そこで得た主はすでにいのちの成長となっている。経験を後にして前を向き、新たな主の知識を求めたい。

昨日、あるものを訳しながらエペソ1章を読んでいて、私たちはまだこれを経験していないではないか、という強い欲求不満を感じた。キリストにあって私たちのうちにあるキリストを死者の中からよみがえらせたほどの御霊の力の表われは、今私たちが経験しているレベルのものだろうか。パウロの祈りが成就するのを、ぜひこの目で見たい。主が私たちの間で、(霊・魂・体のすべてにおいて)人には不可能なことを成し、世に主の愛が明らかになるのを見たい。

コリンのTrue Healingより詳しいReceive Your Healingを今朝読み始めた。コリンが癒しについて主から学んだことを、私もこの機会に十分学びたいと思う。


十字架上でイエスはご自身を、その霊も魂も体もすべて捧げてくださり、ご自身を信じるすべての人々に対して、救いあるいは霊・魂・体の癒しをもたらして下さったのです。

御言葉は、癒しは神の御目的であり、それを受けることを私たちが学ぶべきであると言っています。神のどの子供たちでも、彼らが病気であるときには、癒すことこそ神の最上かつ最高の御心なのです。
(コリン・アーカート)

おお、わが神、主よ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、あなたは私を癒してくださいました。
(詩編30:2)

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